作詞:西条 八十
作曲:堀内 敬三
一) | 水島灘の 沖ゆく白帆も あこがれ仰ぐ 緑のいらか 轟くエンジン 飛びちる火花 意気と力の 溢るるところ 我等が学舎 倉敷工業 |
二) | 科学の意欲 燃えたつ若人 心を一つに 集える園生 知性に即して 我が民族の 久遠の楽土を 築くは我等 理想は逞し 倉敷工業 |
三) | 平和の光 漲る曙 使命は重し 科学の学徒 いざいざ励みて 世界の上に 示せ工業 日本の威力 行くては輝く 倉敷工業 |
1892/1/15〜1970/8/12
詩人。東京生まれ。1915年に早稲田大学英文科を卒業。主なヒット曲:童謡「かなりや」、「東京行進曲」、「東京音頭」戦後、著作権協会会長に就任。
【[現代日本]朝日人物事典(朝日新聞社発行)より】
1897/12/6〜1983/10/12
評論家。1921年にミシガン大学、23年にマサチューセッツ工科大学院を卒業。後、日本に帰郷し放送事業・音楽出版界に貢献する。50年放送文化賞、59年紫綬褒章を受賞。松竹映画音楽部長、日本大学教授、日本音楽著作権協会会長、音楽著作家組合委員長、全日本吹奏楽連盟理事長、NHK中央番組審議会委員長、音楽之友社取締会長を務める。
【標準 音楽事典(音楽之友社)より】
五万の観衆の喚声がとどろく。センターポールに緑の校歌がはためく。おりしもわき起こる校歌吹奏「水島灘の沖ゆく白帆も・・・」甲子園にこだまする勝利の讃歌。聞く度に、いいなあ・・・と思う。
終戦の翌春、戦いつかれた若者もようやく立ち直り、学校も活気をとりもどした二十一年春、校長の直江虎正先生が校歌をと主唱。これを受けてただちに始動。山陽新聞の金平東京支社長(故人、後の同社文化局長。機械科卒、雄彦君の父)に面談した。東京で自由に動け、かつ新聞社というバックのある方が最適と考えたからだ。
多忙な氏も趣旨に賛同して快諾。天下の一流をと、まず西条八十先生が、早慶でゆくか、と「若き血に然ゆる者」の作曲者堀内敬三氏に曲をお願いしてくださる。氏も音楽評論家として名声の高い人。これはえらいことになったと躍りあがった。超一流の校歌誕生だと。この思いは今も変わっていない。
さて、今頃なら作者の現地視察となるわけだが、交通事情の極端に悪い頃。そのかわりに学校の環境をくわしく知らせよということになり、その報告によって生まれたのが「白帆が緑の屋根を仰ぐ」となったもので、これはレポータの責任。小川もささやき草木も語る韻文の世界。散文的おとがめは無用。 また、作詞作曲料は、おそらく誰も簡単には信じてくださらぬ程の少額で、今も思い出しては両先生には、おわびしたい気持ちでいる。これは、学校も戦後の備品整備や建物の修理復活の多大の経費のみこまれる際のこと、私たちの心配を察して、当時の経済緊急措置により入手困難な新円という制度により、お支払いしたいという金平氏のお願いを、両先生が了承してくださったからで、さすがに大家は・・・と感銘を受けた。
それにしても、多忙な任務に追われながら、足代もなしに、最初の交渉から最後のお願いまで、東奔西走してくださった金平氏の霊前に、今のわが倉工の隆盛を報告し、感謝の微意をささげたいと思う。
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