〜東山が原点〜卓球部監督随想

四月八日、お釈迦様の誕生日・花祭りの日が東山高校の入学式だったと記憶している。今は亡き父と式後に体育館横の桜の下で記念写真を撮った。その日から私の高校生活がスタートした。父が岡山県の卓球界の要職についていたため、東山への入学は当初両親ともに反対だった。秋も深まった頃、母の入浴中に父がそっと言ってくれた「自分の限界まで思いっきりやってきなさい。後は心配しなくていいから。」やっとの思いで認めてくれた東山への進学だった。どんなことがあっても、辛抱し我慢してみせる。「絶対に強くなってやる。負けたら二度と岡山には帰らない。」入学前に友人宅に立ち寄り、そう書き残して岡山を後にした。
百万遍にある旧浄土宗総本山、知恩寺の一角にての下宿生活だった。底冷えする京都の冬はそれは大変厳しいものだったが、貴重な文化財にもしものことがあってはとの配慮から暖房器具は皆無だった。寒くて寝付けず、学生服を羽織って寝たこともあった。それでも自転車に乗り真っ白な息を吐きながら早朝練習には毎日通った。小雪舞う静寂な早朝、そんな日も笠を目深に南禅寺の若い修行僧達が裸足で托鉢にむかう厳粛な姿に度々出くわした。その姿は何とも美しく心が洗われるような気がして今も忘れられない。

京都盆地の夏は冬にも増して厳しい。高校三年の夏はインターハイ三冠王という目標を自己に課し、猛練習とトレーニングで肉体を痛めつけた。勝てるものなら精神と肉体をたとえ限界まで追い込んでも耐える覚悟はあった。それは己のためでもあったが両親を喜ばせたい一心でもあった。明らかなオーバーワークであった。現在のトレーニング理論からすれば考えられないような常識外れの練習を己に課したため、体重が四九㎏(当時五九㎏)まで減少してしまった。最後の夏、三冠には届かなかった。しかし、過度に肉体と精神を追い込んだあの日の経験があったからこそ、辛いときや不遇なときでもそれなりに乗り越えられる粘り強さが身についたのだと思う。

私の東山高校在学中は、姉・兄も東京の私立大学に進学していた時期と重なる。今思えば三人の子供の仕送りを、両親は大変な思いでしてくれていたと思う。三人の学費や生活費を含めるとその金額は巨額である。今の私の給料(公立高校教師)ではとても真似の出来ることではない。しかし母から時折届く小包には好物の菓子や果物と一緒にお小遣いと手紙がいつも添えられていた。手紙には「お父さんやお母さんの生活も大変ですが心配するな。お金は本当に大切です。無駄遣いはしないで下さい。ただ食べるもの、卓己の血や肉になるものは、決してケチってはいけない。身体が一番ですから。」いつもそう最後に書き綴られていた。涙が自然にこぼれたこともあった。早くから親元を離れた生活の中で自然にお金の大切さや親の有り難さが身についていったのかもしれない。姉からは初任給で得た貴重なお金を送金してもらった。兄の岡山県卓球大会優勝の切り抜き写真が送られてきたこともあった。父からは精神面・技術面の的確なアドバイスが、温かい言葉で便せんに達筆でしたためられていた。家族皆の支えを自覚し、より励みになった。

レギュラーにはなれなかったものの、全国制覇のために縁の下の力持ちとして応援してくれた京都出身の同級生にも感謝している。皆は自宅からお弁当を持参していたが、親元を離れて生活している私を気遣い余分に持ってきてくれた事もある。家に誘ってもらい夕飯をご馳走になったことも忘れてはいない。熱で寝込んで学校を欠席した時には、下宿までやって来て、擂りリンゴを作って飲ませてくれたこともあった。

流したのは汗ばかりではない。いつも大事な試合では失敗する。思い悩んで一人で走った深夜の哲学の道。どしゃ降りのなか打ちつける雨と涙でずぶぬれになりながら走った冷たい京大グランド。百万遍交差点から、寂しさを紛らす母へのコレクトコールなどなど。目を閉じれば、どれもが走馬燈のように鮮やかに蘇ってくる。青春真っ直中、独特の風情ある京都の街で過ごした三年間は、私の原点と言っても決して過言ではあるまい。いつの日か成長した息子にも語り見せてやりたい、私の第二の古里を。
(岡山県立倉敷工業高校監督)

追伸  一九年前に、とある小雑誌に寄稿した文章です。ちょうど倉工に転勤した年になります。先日、たまたま卓球部保護者がこの寄稿文を見つけたそうです。ぜひ生徒・保護者や卒業生にも紹介したいと依頼され、おこがましくも卓球部ブログに掲載させていただくことにしました。今更ながら読み直してみると、稚拙な文章で誠にはずかしい限りです。卓球部生徒たちには他人事ととらえず、四十五年前、 君たちとおなじ卓球道を志した一人の高校生のことだと意識して読んでもらえたらと思います。